2018年 9月16日、第二十三話「山中食」をアップしました。
                             親爺にすればかなり良いでのペース更新です・・・・・。
                        

◎先ずはご挨拶

 三年前親爺は書きためていた駄文をまとめ、「立山夜なべ話」として本にしました。
 立山の麓の村「芦峅寺」の生活を、思いつくままに書き連ねた本ですが、親爺の書いたものですから、いかなる価値も無いと言う
代物です。それでも世の中にはこの馬鹿っ話を「おもしろい」と読んでくださる心優しい方々がいらっしゃいました。
 その心優しい方々が、小屋を訪れてくださって、あるいはお便りやメールをくださって「親爺さんおもしろかったよ。また書いてよ」
とか、「続を心待ちにしてますよ」とか、「親爺さんにしか書けないんだから、本当に待ってますよ」などと褒めたり、おだてたりしてくれ
るものですから、親爺はまたその気になってきました。どうせこの時期は山里の雪に埋もれて、日々量閑日の親爺です。他にするこ
ともありません。
 で、この「続・立山夜なべ話」のコーナーを立ち上げました。懲りずに・・・。
 根がずぼらな親爺ですので、定期的にきっちりと更新を続けるなど思いも寄りません。
 一月に一〜二編づつ、ぼちぼち掲載しようと思っておりますがそれも確実ではありません。親爺の怪しい?計画に過ぎません・・・。
 なにせ、未だ書きためたものは一つ二つしかないのですから・・・。
 そんな親爺の怪しげなコーナーになりそうですが、どうぞお付き合いいただければ幸いです。
 それでは皆様、宜しくお願い申し上げます。
                                             平成二十二年一月十一日
                                                剱御前小舎 親爺



    続・立山夜なべ話


 一、 うさぎのキモと骨の髄

 今の私からは想像も付かないが、子供時代の私は食が細く、痩せてガリガリだったそうである。
 「頭ばっかりデカくて、体は痩せて骨が浮いておった。風邪は直ぐひくわ、腹は直ぐこわすわで、本当に弱い子どもだったちゃ。」と母や祖母がよく言っていた。 
 そんな私を心配したのは母や祖母ばかりではなく、父も随分心配したようで、冬の猟で獲ってきた野うさぎのキモは全て私に食べさせた。
その頃の芦峅寺では、うさぎのキモは最高の滋養食品と考えられていたのだ。
 うさぎのキモというのはうさぎの肝臓で、雄のうさぎだとその睾丸もキモの範疇に入るが、一羽のうさぎからはほんの僅かしかとれない。
 その小皿一杯分ほどにも足りないキモを、七輪に掛け渡した金網の上で、丹念に砂糖醤油で付け焼きにしてくれるのである。
 親たちはそれを私に食べさせる時に、決してそれが肝臓だとか睾丸だとかと言いはせず、「うさぎのキモだぞ。美味いぞ。キモ食べりゃ強くなるぞ。」とのみ言っていたので、私がそれを肝臓だとか睾丸だとか知ったのはずっと後になってからのことだったが、食べ物に偏見を持つことすら全くない幼い日の事だから何と言われてもキモはキモで平気だったかも知れない。
 キモの油と醤油の焦げた香ばしいにおいと、熱々で甘辛くきめの細かい味は、小食な私でも確かに食が進んだ。
 そして何より小皿一皿にも満たないその量が、「もっと食べたい。」と後を引かせたから、流石に食の細い虚弱児にもうさぎのキモの付け焼きは、美味いものとして記憶されたのだ。

 もちろんうさぎはその肉も余り癖はなく淡泊な味で、普通は骨付きのままぶつ切りにして煮込み、大根を荒く削って入れ、味噌で味を調え食べた。
 肉の味が大根に染み、骨付きの肉は身離れが良くなるまで煮込まれていて、身も大根も美味いのだが、それよりも骨の髄が、これはたまらなく美味いのである。
 うさぎの骨などか細いもので、子供の歯でも簡単に噛み折れた。
 前脚や後脚とおぼしき骨をもらい、パキッと噛み折るや、それをちゅーちゅーと啜るのである。
 何と表現したらよいのだろうか、まるで上質のバターのような濃厚な味が、かすかに染みこんだ味噌の塩味と混ざり、これは野生の香りとでもしか言い表しようのない香ばしい良い香りと共に口中に広がり、当時の私にはそれが無上の美味さだと思われた。 
  
 芦峅寺と云う立山の山懐の村で育った私には、うさぎのキモや骨の髄は本当に懐かしい味で、ごく普通の食物の味にもそれぞれの思い出はあるのだが、本当の思い出の味としてはこれにとどめを刺すだろう。

 山から父が狩りによって得てくる糧としてのうさぎ。
 そのキモから骨の随の味までを知っていた幼子の私。
 我が事ながら、何やらエスキモーの話のようですらあり、生活の中に狩猟が深く根付いていた僅か半世紀前の思い出が、遙か昔の話のように感じられてならない。

 昭和三十年代初頭の芦峅寺にはそんな生活がまだ息づいていたのである。


二、  山小屋の素性

 山小屋は元来が厳しい自然環境の中の「シェルター」だった。
 吹く風を遮り雨露をしのぐ、岩室のようなものがそもそもの始まりで、人里離れた奥山に一夜を何とか過ごす「宿り」に過ぎなかった。
 今日のような営業小屋としての山小屋は立山の室堂小屋が最も古く、江戸時代末には建てられており宿泊代を取って「お客さま」を泊めていたという。
 だが、いわゆるスポーツ登山は明治期以降のもので、それまでは山岳信仰での登拝という、巡礼あるいは修行の山登りが全てであったので、この室堂小屋もストイックなまでに簡素な「木造シェルター」に過ぎず便所すら備えてはいなかった。
 現在のアルペンルートが貫通した立山一帯には二十余りの山小屋がある。多くは戦後建てられた小屋だ。戦前からの現存する小屋は、室堂小屋(現室堂山荘)、平の小屋、五色小屋(現五色ヶ原山荘)、剱沢小屋、天狗小屋(現天狗平山荘)、剱御前小舎、大日小屋で、この他の小屋は戦後に建てられたものである。
 スポーツ登山は明治期から行われるようになり、大正、昭和と徐々にその愛好者を増やしていった、と同時にその登山自体が多くのバリエーションを持つようになり、登山者はより未知なるエリアへ、より険しい高峰へ、そしてより過酷な厳冬期の登山へと飽くなき挑戦を続けていった。
 そんな中で、山小屋が建てられていったのである。
 明治期に建てられたと云う平の小屋は信州の山人、遠山品右衛門により猟小屋として建てられたもので、五色ヶ原に後に建った五色小屋も芦峅寺の猟師達の猟小屋として建てられたものだと考えられるが、信州の猟師と越中の猟師の縄張り争の匂いがして興味深い。
 しかし、このような猟小屋が登山者に宿りとしてあてにされ、利用されるようになって来るとこれを管理運営し宿泊料をもらう方が猟をするより良い現金収入になる。それならば飯も提供し、少しは寝心地なども配慮し、室堂小屋のような山小屋にした方が良い、と我がご先祖様は考えたのだと思う。少なくとも信仰登山のルート以外にも登山者が分け入り、山小屋営業が可能になったのは間違いない。
 明治末、陸地測量部により剱岳が登られた。剱岳は一躍当時の山岳界の注目を浴び、大正期に入り水の便の良い剱沢に小屋が建てられ、剱岳登山の格好の基地である剱沢小屋として多くのアルピニストに親しまれた。
 大正末期からは積雪期登山が行われるようになったが、大正十二年冬、立山松尾平で立山の山岳遭難事故史上最初と言われる板倉勝宣氏の疲労凍死事故が起きる。これにより室堂から松尾平に到る途中に冬期の避難小屋の必要性が叫ばれ建てられたのが天狗小屋である。そしてまた昭和五年冬、剱御前山から出た大規模な雪崩で剱沢小屋が倒壊し、我が芦峅寺のガイド二人を含む六人の尊い命が奪われ、これを機に芦峅寺の山人たちにより剱岳の登山基地として厳冬期も雪崩の心配のない別山乗越に建てられたのが今私が経営する剱御前小舎である。
 剱岳が登られてから既に百年。立山の山小屋はまるで変わってしまった。
 山小屋は大量な資材輸送手段をヘリコプターにより手に入れた。
 ヘリで運ばれた資材は小屋をシェルター以上の宿屋とした。
 山小屋はヘリで運び込まれた発電機で電気を手に入れ、奥山の夜闇を電灯が照らした。更に電気は冷凍食品の保存を可能にし、冷凍食品の進歩は山小屋の食事内容を下界と大差ないものにした。今や下界に限りなく近い利便性と快適さを登山者に提供するのが宿屋である山小屋の使命とすらなっている。
 吹き荒れる外と遮断された、必要最小限の空間の不十分な夜具の中で、体を丸め自らの体温を楽しみ、今自分が荒々しい大自然の中にいることをひしひしと感じながらまどろむ「喜び」などというものは、ストイックな山岳信仰の修験者と一緒に時の彼方へ埋没してしまうしかないのだろう。 
 かつてシェルターであった山小屋が、その出自をかろうじて留めているのは今や「小屋」という字面だけかもしれない。

 三、 五十路半ばの小屋開け

 今年平成十九年四月二十四日、私は小屋開けのため立山に入った。
 何のことはない、毎年のことなのだが今年の小屋開けには一つだけ大きな違いがあったのである。
 室堂までバスで入り、アイゼンを装着し、雷鳥平へ下り、雷鳥沢を登ったのだ・・・。

 恥ずかしながらここ十年余、私は芦峅寺のヘリポートから剱御前小舎の玄関先までを約十五分でヘリコプターにより小屋入りしていたのである。
 だから今年の小屋開けで、自分の足でガリガリに凍てついた斜面を登ったのは五十路を超えて初めてどころか、十余年ぶりだったことを白状しなければならない。
 家内の心配はもちろん、私自身も全く自信はなかった。
 すっかりなまりきった、メタボリックシンドロームの標本のような身が果たして、あのアイスバーンの急坂を登れるのか、家の階段でさえ息切れしている心臓が果たしてあの希薄な空気と寒風の中で動き続けられるのか、すっかりたるみきった体中の筋肉があのバランス感覚の要求される細い稜線で体を支えきれるのか、と。
 あながち山の状況が解っているだけ心配は募ったが、去る三月に水晶岳で起きたヘリコプター事故により、国土交通省の勧告を受けたヘリコプター会社各社は、山小屋への物資輸送は行うが、安易な人員輸送は自粛するとの決断で、今まで当たり前になっていた立山一帯への小屋開け空輸時にも、人員輸送をその安全性が確認されるまで一切中止としたのだ。
 困ったのは私だけではない。近辺の小屋も皆困り果てた。そしてやむを得ず皆、昔ながらの足による入山となったのである。

 この時期、久々に高原バスで室堂に降り立った私は、バス停からターミナル屋上へ上る階段で先ず激しい息切れにおそわれた。眼前に広がる雄大な白一色の立山の峰々、我が剱御前小舎も別山尾根の鞍部に点のように小さく見えている。ゼーゼーと喘ぎながらも息を整え、ゆっくりゆっくり歩を進めた。本当に悲壮な覚悟である・・・。と五分も進まぬ間に何となく息と歩調が合って来はじめ、端から見れば随分とゆっくりの足取りではあったろうが、いつの間にか見慣れた雷鳥平に立っている自分に気付いた。時計を見れば三十分、結構速いペースではないか。私はすっかり気分を良くし、剱御前小舎から親爺の身を案じ出迎えてくれた小屋開け先発隊の若い衆一人と合流した。
 「ナーニ、まだまだつかえんちゃ。(大丈夫だ)。」と高をくくり、余裕の一服。頗る爽快な気分で雷鳥沢の急登にかかる。雪はほどよく氷結し、アイゼンが心地よく利き、一歩一歩と高度が上がってゆく・・・予定だったのだが、一歩一歩がスムースに出ない。息が切迫し立ち止まってばかり。5mも高度を上げるのに二、三分もかかる。斜度が緩くなると三十歩は登れるが、きつくなると五歩で息を入れないと駄目だ。時間が無情に流れ、高度はちっとも上がらない。我ながら情けない!!「俺もここまで駄目になっていたのか。」 優しい若い衆は「大丈夫です。もうすぐです。はいゆっくり行きましょう。」と、私の鈍足を責めるどころか、あくまで優しい。その優しさが又辛い。「俺もこんなところでいたわられるようになったのか。」苦闘四時間、ようやく剱御前小舎と同じ高度の稜線に出た。雪の上にどっかりと座り込み、苦闘の後を遙か足下に見たとき、私は十余年ぶりに自分の足で稼いだ高度に満足し、この時期の白一色の山々に感動した。
 私は意気揚々と背筋を伸ばし、堂々の歩みで、窓で手を振るスタッフのいる剱御前小舎に入った・・・と、「親爺さんよろよろとしてたけど大丈夫でした。」屈託無いスタッフのその一声は、私を情け容赦なく現実に引き戻し、私は高度純化するのに四日かかった。
 標高二千七百六十米、剱御前小舎親爺五十四歳、これでも一応現役である。

(平成19年6月脱稿)

 四、 山暮らし

 待ちわびて、ようやく迎えた山里の春。が、その温かさを楽しむ間もなく、私は未だ雪に埋もれた立山に生活を移さねばならぬ。
 それが私の商売で、私が山小屋の親爺だからで、想えば因果な商売ではある。
 今、立山には二十ばかりの山小屋があるが、その殆ど全てが我が芦峅寺の村人の小屋で、この芦峅寺の住人は自分らでも「良く解らぬ」ほど昔から立山で生きてきたらしい。
 「良く解らぬ」のは当たり前で、村の伝承では千三百年も前に村が開かれたなどと言うのだから「解っている」などと言うと講釈師になってしまう。
 しかし、とにかく芦峅寺の村人が代々立山に生きてきたことだけは確かである。
わが家でも祖父、父、私と三代続けて立山に生きていて、祖父は昭和9年の京都帝大白頭山遠征に選抜されたほどの名山岳ガイドだったと言うし、父も山岳ガイドとして昭和32年の第一次南極観測隊に選抜された経歴を持つ。残念ながら三代目の私に至って輝かしい経歴は頓挫、三代目はただ三十年山小屋経営をしているばかりだ。しかしそれでも我が三代中、立山に過ごした時間だけは恐らく最も長くなるのだろう。
 こんな父祖伝来の山暮らしを、因果な商売などと言うのは一寸はばかられるのだが、五十路も後半過の身にはこの山暮らしは、確かに応える。
 夏の高山植物が咲き乱れ晴天に恵まれた立山ならば何のこともないが、春先四月の剱御前小舎などと言うところは恐ろしいところなのだ。氷点下十五度は朝方の小屋玄関内の気温で、玄関の凍り付いた引き戸の外の気温など計る気もしない。ストーブをほぼ焚きっぱなしの室内でも五度前後、手洗いでズボンをおろすときに覚悟がいる世界なのだ。
 ましてや小屋の周りなど完全に凍り付いている。一寸外へ出るにもアイゼンを付けないと一歩も歩けぬ。そんな中で水を作るのがまた一苦労だし、せっかく掘り出した窓や、玄関までも吹雪の一吹きで埋もれてしまう・・・そう、小屋は未だ半分ほど雪の下にあるのだから。 
 とか何とか言いながらも雪は溶け、どうにか最盛期の夏が過ぎ、早い秋が来て、十月中旬ともなれば山小屋の営業は終わる。私たちは小屋仕舞いをし、芦峅寺の山里に下りてゆく。さて、それからの数ヶ月、他の仕事では一寸味わえない長期の自由時間が、立山からの贈り物として私達に与えられる。これがたまらない・・・。
 だからやはり、立山での山暮らしは少しは因果な商売ではあっても、私には何物にも代え難い「父祖伝来の生き方」で、私はこれからもこの生き方を変えるつもりはない。

                                     (平成20年「玄」掲載)







五、 寒張りの頃

 冬の朝の登校路の脇には、真っ白に雪に覆われた田んぼや畑が広々と広がっていて、その外れは、大半が杉の山林に続いていた。
 登校路は雪がしっかり踏み固められ、子供の足でもそんなに苦労することなく歩けたが、それはもちろん父兄や、村の外にある高校、中学へ通う年長の生徒達が毎朝踏み固めてくれるお陰だった。
 雪のない時期なら道草を喰う種には事欠かない。通学路をまっすぐ行き帰りする事など先ずありえない。
 どこかの畑へ忍び込んで悪さをしたり、桑の実、スモモ、柿、アケビ、栗、ヤマブドウなどが実る時期や場所などは、野生のクマや狢よりもずっと詳しい子供達ばかりだった。
 が、冬の雪の通学路は如何ともし難い。
 踏み固められた道以外は背丈を超す積雪で、子供の体力ではとても歩めないからだ。
 だから冬の通学路では道草を喰う事はほとんど無かった。
 しかし、二月も末になり、所謂三寒四温の季節ともなると、日中の日射しや暖かい大気に、降り積もった雪の表がゆるみ、それが朝方の冷え込みで氷結する事があって、そんな時は見渡す限りの雪野原一面が、アスファルトかコンクリートで固めたようになる。
 大人が乗ってももぐることもなく、ましてや子供など乗って、駆け回ってもこの雪野原はびくともしない。
 この状態のことを我が山里では「寒張り」と呼ぶ。
 二ヶ月ほども道草を喰えなかった子供達にとってこの寒張りは、気まぐれな冬の神様からの贈り物であった。
 見渡す限り雪野原は、その下の畑や、小川や、田んぼ等々をすべて覆い隠して、いたるところ緩慢な起伏とも呼べぬ緩やかな凹凸で広々と続き、その何処をどう走ってももぐることもなく、ザラザラした表面は、裏のすり減ったゴム長靴でもあまり滑ることもなかったのだから、たまらない。
 通学路の両脇の積雪をよじ登れば、眼前には白一色の雪面が広々と広がる。
 最初の二、三歩はおそるおそる踏み出すが、もぐらない事を少しずつ確かめ、確かめて、ちょっと飛んでみて、どんどん踏みしめてみて、終いには飛び跳ねて、全くもぐらないことを確信するや、「おーい、ゴボらんぞー(もぐらないぞ)」と友達同士歓声を上げ、そのあたりを駆けめぐり始める。
 畑や田んぼは姿も見えず、普段はうっそうとした下生えで通れぬ山林の斜面までも駆け上っては駆け下る、雪野原という雪野原は一面広々とした絶好の遊び場になるのだ。
年端も行かぬ腕白どもの事である。遊びに夢中になれば時の経つのを忘れる。これが下校時なら帰宅が遅れて、母ちゃんか、父ちゃんにげんこつの一つももらえば事は済むのだが、寒張りというのは大概が朝の現象である。
 ちょっとだけ遊んで学校へ行くつもりが、遊びの面白さについつい負けて、かなり山奥まで分け入ったりしているとひどい目に遭う。
踏み固められた通学路を遙かに離れて、寒張りを良いことに駆け上がった山林の奥で足がもぐり始めたことに気付いても、すでに手遅れで、慌てて通学路へ出ようとしてもそうは問屋が卸さない・・・。
 寒張りは気温の上昇とともに緩んで、ついにはズボズボと足がもぐるようになり、最初は足首やふくらはぎくらいまでだが、これがついには股までももぐるようになるのだ。
 短い足を必死に動かして、雪が緩みもぐる様になった雪野原を通学路に戻り、ぐしょぐしょに濡れて、どうにかこうにか校門に到着した時はすでに「集団遅刻」となっている。
 後悔先に立たず、恐い先生からのげんこつはもちろん、放課後も居残りで反省文を書かせられることになるのだが、のど元過ぎれば何とやら毎年のように反省文を書いていた気がする。
 今は昔、五十年も前の話である。


六   畚と菰

 畚と菰は、フゴとコモと読む。
 わが山里では嘗て、フゴとコモは女衆の畑仕事や山仕事に欠かせぬ重要な道具であった。
 コモは本来、マコモや藁などで編んだ筵のことを云うらしいが、芦峅寺では荷物を背負う時の背あて状に、藁で編んだ筵を指してのみコモと呼んでいたようだ。
 フゴは山仕事、野良仕事に使うものいれで、やはり藁で編んであって、いろいろな大きさのものがあった。
 主に女衆だったが、背にコモを着て、鎌や弁当などを入れたフゴを背負い野良仕事や、山仕事に出かける姿は、私が子供のころには日常のものだった。

 幼いころ、家のすぐそばにある畑に母に背負われて行った時の情景が、私には今でも鮮明に残っている。母は畑に着くや、自分の背に着たコモを平たい石の上に敷いて私を座らせ、傍らのフゴから駄菓子を取り出し私に持たせると、鍬を取って畑仕事に取り掛かる。
 わずか数分もおとなしくコモの上に座っていただろうか、「母ちゃん、家へ行こ。」と私がぐずりだすのを、「何よ、もういやになったんかぁ。よしよしもうちょっとだぞ。」とあやすように云いながら、歌を唄ったり、面白い話をしてくれたりしながらなだめ、汗にまみれていた若い母の姿と、石の上に引かれたコモのむずむずした肌触りが甦る。
 このコモやフゴは大抵老人たちが冬の間に編んだ。
 老人といってももちろん女衆で、芦峅寺の男衆はたとえ爺さまでも、猟や橇引きはしても藁編みなどをしては沽券にかかわるから決してしない。
 またこのコモ編みやフゴ編みにはそれなりの経験と技術も要求され、若い母ちゃんたちは家事や子育てで忙しいから、ちょっと二の足を踏む。
 だからそれは婆さまたちの独壇場だった。婆さま同士声を掛け合って、どこかの家の「あま」と呼ばれた中二階の作業場のようなところへ、おのおのの編み台を持って集まり、まぁ世間話八分に仕事二分といった按配で、お茶を飲みながら、コモやフゴ、そしてちょっと気が向けば雪靴までも編むのだ。
 「あま」は中二階で、その階下は囲炉裏があったので、暖かく、婆さまたちが座り仕事をするのにはちょうどよかった。
 編み台は木製の、ちょと背丈の低い鳥居のような格好をしていて、横木には等間隔の目盛りが刻まれ、「タンコロ」と呼ばれた木切れに編み紐をぐるぐる巻きつけた錘のようなものを、その目盛り一つに二個ずつ互い違いにずらりと掛け並べてあった。
 早い話が、その横木に藁を沿わせ、編み紐を巻いたタンコロを交互に動かして筵を編み上げて行くのだが、ただ延々とこの作業の繰り返しでは一定幅の筵しかできない。
 どこをどうするものか、背あてのコモには両肩の間に首が入る凹状の切れ込みがあったし、フゴは茶巾袋を大型にしたような立体的な袋で、藁沓にいたっては見事な靴の形だったのだ。
 フゴの最後の工程が、雪を詰めて整形するということだけを覚えているが、私が小学校の高学年の頃まで祖母たちの藁仕事が続いていたからだろう。
 小さな窓から雪明りが差し込み、階下の囲炉裏のぬくもりが「あま」全体を暖めて、そこには我が家の婆さまや、母方の「日光ばぁば」(日光坊という宿坊が母の実家だった。)や向かいの婆さまが、本当に楽しそうに穏やかに車座になって、お茶を飲みながら、駄菓子をつまみながら話に笑い興じ、たまに思い出したように藁を編んでいた。
 恬淡な老人だけの持つ、独特の風格さえ感じさせる情景だった。
 しかし、そんな情景は半世紀も前に絶えてしまった。
 だから、今の芦峅寺ではフゴを見たこともないし、コモを着て野良に出かける人もいなくなってしまった。
 それどころか、若い女衆が野良や山仕事に出かける姿はフゴやコモと一緒に絶えて久しいのだ。

 七、 まいだま

 窓外の雪をかぶった杉木立に少し温かみを増した陽が射して、雪を落としている。
 二月半ばのありふれた山里の風景だ。
 長い冬もようやく峠を越えて、これからは少しずつ春めいてくるが、それでも寒さは厳しく、立春を過ぎたのは暦だけのことである。山里に本当の春が来るのはまだ一月半も先で、この頃は冬半ばの、冬に倦むころでもある。
 でもそんな頃にも一寸した楽しみはあったもので、子供の頃から食い意地の張った私は「まいだま」が乾しあがるこの頃を、心密かに待ちわびていた。
 「まいだま」を説明すると、薄く、せんべい状に切った保存性の高い乾し餅である。
 昔は暮れの餅つきの時に、最低でも三臼ほどは「まいだま」用に餅をついたもので、一臼が二升の餅米だったから、結構な量の「まいだま」を作ったものである。
 普通の餅は切り餅だから、方形の縁の付いたのし台に平たくのばし、後で切って整形したが、「まいだま」の餅はのさず、長方体の木枠に入れて固めた。一、二日経ってこの長方体の餅がほど良く固まると、押し切りと云う、手動スライサーのようなものに乗せ、厚さ三ミリほどの薄い餅に切る。そしてこれを藁で編み連ね、縁側など屋内の空いた空間にかけ連ね、乾し餅としたのだ。
 この乾し餅をなぜ「まいだま」と呼んだかは定かではないが、繭玉・マユダマの転訛ではなかろうかと思う。
 母の実家、日光坊の大黒柱には正月に柳の枝に団子大の餅を沢山つけて飾ってあって、「これは繭玉云うもんじゃ。」と伯父に教えてもらった記憶があるから、おおらかな我がご先祖様たちが乾し餅も「まゆだま」と呼び、いつしか「まいだま」と我が山里言葉で発音しやすいように呼び習わしていったのだと思う。
 まあ、そのあたりはともかく、この「まいだま」は最高の保存食で、焼いて、あるいは油で揚げて、せんべいの様にバリバリと喰うとこれはもう本当にうまいのだ。
 「まいだま」はその餅をつく段階で塩味をつけ、切り昆布を混ぜて昆布餅としたり、黒豆を混ぜて豆餅としたり、さらには青のりを混ぜたり、南京豆を混ぜたり、ついには陳皮(ミカンの皮)まで混ぜて、いろいろな味や香りも楽しんだ。
 暮れに乾した「まいだま」が乾しあがるのがちょうど二月半ばごろで、干してある「まいだま」は割れこわれぬように丁寧に取り込んで、一斗缶などに保存された。
 丁寧に乾しあげて丁寧に保存すれば、その年の夏を越してもまだ十分おいしく食べることが出来た「まいだま」だが、やはり乾し上がったばかりの「新のまいだま」は格別うまかったような気がする。
 祖母がいろりの縁に熾火をとって、金網の上で焼いてくれたまいだまや、母が油で揚げて、大きな菓子器に盛り上げてくれたまいだまの味は、今は我が家の山の神がこれを継承する・・・はずだったが、家で餅をつくことも最近はなくなって、しばらくあの味を忘れている。
 私の叔母がいる。母の妹で、私には最後の血のつながった叔母で、今は亡き叔父(父の弟)の妻でもある。この叔母は我が山里では珍しく、若い頃から会社の経理一筋に生きたた職業婦人だったからその分、母などと比べると家事などについては合理的?な考えを持っていたようだ。
 叔父も叔母もまいだまが大好きで、でも多忙な叔母の家のまいだまは、たいてい母が用意してやっていて、叔父が藁で編んだまいだまをよく家へ取りに来ていた。
 が、ある日、叔母がまいだまを編んで乾す位は自分でやると、姉である母に宣言した。 母は「ほう。アツコも感心な・・・でも藁で編めるかな?」と思っていたらしいが、合理的な叔母は藁で編むなど最初から考えておらず、まだ生乾きのまいだまを、針に木綿糸を通して縫い連ねて吊した。「こんな簡単なこと、私でも出来る。」と叔母が思ったかどうかは知らないが、まあそんな風にして時間が経った。
 しかし、縫われたまいだまは、乾くに連れて割れが出て、糸一本で刺し連ねられた部分から割れが広がり、やがて全部割れこわれて床に落ち全滅したらしい。
 「アツコのすることだちゃ。まいだま編まんと縫うダラは、聞いたことないちゃ。(翻訳:アツコしかしないよ。まいだまを編まないで、針で縫ってつるすなんて馬鹿なことは聞いたこともない。)」と、母が大笑いしていた姿を思い出す。
 でもこの叔母は今や、まいだまを作り、藁ならぬビニールひもで、まいだまを編んで乾すことも出来る、数少ない立派な山家のお婆になっていて、今度は私が叔母にまいだまを用意してもらおうと思っている。


 八、  糒と宮様


 今は昔の話で、亡くなった母の長姉である伯母から聞いた話である。
 その頃、母の実家日光坊が経営していた大日小屋に宮様がお越しになった事があった。
 お忍びでのお越しだったが予めその筋からのお達しがあって、お付きの人たちや、巡査や、屈強な芦峅寺のガイド数人を伴った大名登山、いや宮様だからロイヤル登山であったことは言を待たない。
 予めのお達しでは、寝具や便所を特に清潔に清めるようにとの指示を受けたから、新しいさらしをシーツに縫い布団も日に乾し清めて寝具を用意し、便所は新しく穴を掘りそこへ這松を入れ並べ、新しい便器を取り付け準備をしたという。
 もちろん、宮様がお泊まりになる部屋や、食事を差し上げる所も念入りに清めたが、なにぶんが奥山の山小屋の話である。宮様自身そんな奥山を楽しみにお越しになるのだから、その筋もそれ以上のことは言わず、当時としては異例とも言うべき簡便さだったのだという。
 さて当日は何か失礼があってはならない。
 我が祖父義道和尚は、宮様のお越しになる三日ほども前に祖母と伯母を特別に大日小屋まで呼び上げ、宮様に差し上げる食事の用意を任せた。
 しかし任せられた祖母にしても、そんな気の利いたものは何も作れない。
 伯母などその頃は未だ二十歳前だったそうだから、二人ともかなり困ったらしいが、祖父は心さえ込めて作れば、宿坊である日光坊でいつも立山登拝のお客さまに出している料理で良いと言った。
 祖母も伯母も少し気が楽になって、「お父さんがそう言うがなら、さあ一所懸命つくるまいか。」と、先ずは台所を掃除し清め、鍋、釜、包丁、まな板も何もかもピカピカに磨き上げすっかり準備が整った。
 そして緊張して迎えた当日。
 晴天に恵まれ、宮様ご一行は予定よりかなり早く到着された。
 お若い宮様は機嫌良くお付きの方々と部屋に入られ、寛がれたようだ。
 夕食を差し上げるには未だ時間があるし、お茶を差し上げようと祖母と伯母は慌てて支度に取りかかったが、小屋の前までお迎えに出て目にした宮様はお若く健康そうで、これはきっとおなかも空いておられるだろうから、何か茶菓子もと、祖母が言い出した。
 しかし、茶菓子の準備はしていない。
 「母ちゃん、茶菓子は何も用意してないがよ。」と伯母がいうと、祖母は流石に宿坊の大黒(主婦)としてお客さまを迎えることには慣れていて、機転が利いた。
 「茂子(伯母の名)や、ホシ(糒)あったろう。あれを油で揚げて宮様に出すまいか。かわいさげに(お可愛そうに)あだけ(あのように)若い宮様じゃもんきっと腹が減っておられようわい。」と、伯母に言いつけた。
 当時の山小屋の食料は全て人力で荷揚げしたものだから、無駄な生ゴミなど殆ど出さない。余ったご飯なども綺麗な茣蓙に広げ糒(ほしい)をつくり、保存しておいたもので、飯を捨てるなど以ての外だったから、この時も少し糒が有ったのだ。
 伯母も若いながら宿坊の育ちである、手早く七輪に炭を注いで火をおこし油をわかし、茶筒に保存してあった糒(山里では「ホシ」と呼んだ)を揚げ、それにちょっと砂糖と僅かな塩を振り混ぜ、懐紙を敷いたお盆に盛りつけて、茶菓子としてお出しした。
 細かい揚げあられを想像していただければ良い。空きっ腹の虫ふさぎにはちょうど良いものである。
 さて、その糒の揚げあられもどき、宮様はこれが痛く気に入ったようで、お付きの人を通じ、「美味しいからお代わりが欲しい。」と行って来た。
 これには祖母も、伯母も慌てた。
 「母ちゃんや、どうしょうか?ホシはもうないじゃ。」と言う訳である。
 「そりゃよわったなぁ。どうなるよ、ホシないなら、直ぐ作るまいか。どれどれ・・・」祖母は自分たち用に取ってあった、朝炊いた冷や飯をホシ作り用の茣蓙に広げ、その茣蓙を囲炉裏の火にかざしホシを作り始めた。
 ちょっと時間はかかったものの何とか速成の糒を作り、これをまた油で揚げお出しした。
 このため、夕食の時間が予定よりもかなり遅れてしまったが宮様は大満足で、翌朝大日小屋を発つ時には、見送りに出た祖母と伯母に笑顔で、「昨日のお米の菓子は美味しかったです。有り難う。」とわざわざお声をかけて下さったと言う。
 伯母はその時の事が余ほど嬉しかったらしく、この話を何度もしてくれたものだ。
 その伯母が八十二歳で逝った後、私は村内の友人の一人から古い写真を一枚見せられた。
 それは、その友人の父がガイドとして大日岳に宮様を案内した時の写真で、そこには伯母や祖母や祖父も一緒に若々しい顔で写っていて、紛れもなく伯母に聞いた「糒と宮様」のエピソードのあった時の写真だった。
 私はその写真を見ながら、慌ててホシを作り油で揚げる伯母や祖母の姿がありありと目に浮かんで、少し涙腺が緩んだ。


 九、   ピョンカツ

 私の父の一番下の弟である叔父は皆から「ヒコ」と呼ばれていた。
 名前が宗彦だからで、そのヒコ叔父も今年は七十八歳になる。
 そのヒコ叔父が、新制の高等学校を卒業したのは終戦から七,八年も後のことで、戦後の酷い食糧難や混乱からようやく立ち直り、世の中も落ち着きを取り戻した頃だった。
 落ち着きを取り戻したとは云え世の中は未だ貧しく、高校は出たけれどと言う訳で、その頃ヒコ叔父は就職浪人をしていたようだ。
 しかし家にいても、上の二人の兄からは小僧扱いで雑用ばかり言いつかるし、気の強い母や、すぐ上の姉にも末っ子の気軽さで云いように使われてばかりであるからつまらない。
 何か良い仕事でもないかと、同じような境遇の仲間と語らっても、何分の芦峅寺の山里でのことで、そんないい仕事など何処にもなかった。
 しかしこの山里には立山がある。
 そしてこの頃は立山にも又、登山客がかなり大勢くるようになっていた。
 よし、立山で何か一稼ぎしよう。・・・が、未だ若僧にも満たない十八、九の小僧に大人さえ難しい山案内など出来るわけもないし、周りの大人がそんなことを許すわけもない。
 そんなヒコ叔父に出来る仕事と言えば、せいぜいどこかの山小屋に潜り込んで小屋の手伝いをするか、お客の荷物を担ぐボッカ(ポーター)のまねごとくらいしかない・・・。
 悶々とする日が続いた。
 そんなある時、親戚の僧侶が声をかけてくれた。
 「ヒコや、おりゃ全部手配してやるちゃ、室堂で茶屋でもやれ。どうじゃい?」と言うのである。
 室堂に有る旧の測候所の小屋に休憩所の営業許可を取ってやるから、そこでうどんでも売って小遣い稼ぎをしたらどうかと言うのだ。
 ヒコ叔父に否やはない。
 「おう。やらせてくれ。」と言うわけで話は決まった。

 終戦直後の食糧難を、喰い盛りで過ごした経験が役に立った。
 高校時代にはまだ空襲の焼け跡の生々しい富山市内へ毎日通い、闇市や路上販売の怪しげな食べ物にも馴染んだし、たまにはうどんやそばも食べたから、食べ物を美味く食べる工夫もそれなりに学んでいたのだと云う。
 
 乾麺や醤油や鍋釜包丁までも何処でどう用意したのかは、叔父も殆ど覚えていないらしいが、とにかくそんなものを大量に背負い室堂へ向かった。
 測候所だった小屋を片付け、厨房を片付け、大きな釜に湯を沸かし、大鍋につゆを作り、準備万端整えた。が、つゆの出汁が美味くない。担ぎ上げた煮干しだけではとうてい美味い出汁が取れない・・・・・と、ヒコ叔父はひらめいた。
 ウサギである。
 その頃の立山の室堂平などには野ウサギが沢山いて、針金のくくり罠をかけるとその罠の数だけ確実にウサギが捕れた。
 で、ヒコ叔父は早速、玉殿の岩屋周辺に三ヶ所の罠をかけた。くくり罠など芦峅寺の悪ガキどもには得意中の得意だったから、ヒコ叔父もいとも簡単に罠をかけたのだ。
 翌朝、かけた罠全てにウサギがかかっていて、三羽のウサギを得たヒコ叔父は早速それを捌き、ウサギの肉うどんを作った。
 これが実に美味かった。
 ウサギの肉は脂がほとんど無く、鶏のささみに最も近い。
 細かく刻んだ肉をつゆの中に思いっきり入れ、煮て、ゆであげたうどんにこの肉入りのつゆをかけて、刻みネギを載せて一丁上がりである。
 いや、売れた売れた。
 未だ肉など高級品だった頃のウサギの肉うどんは登山客に大好評だった。

 余ったウサギの肉は賄いで自分でも食べるのだが、脂気がなさ過ぎて若い叔父には物足りない。そこで、これに衣をつけて、トンカツ風に揚げて食べてみた。
 これが美味かった。ちょうどチキンカツといった味だったそうだ。
 これを売らない手はない。
 ヒコ叔父は新メニューのウサギのカツを売ることにした。
 ウサギカツでは何やら面白くない。そこで、ウサギぴょんぴょんで、「ピョンカツ」としてこれを販売した。
 これが又肉うどん以上に、売れに売れた。
 材料のウサギ肉はいくらでも豊富に手にはいる。しかしこれを調理する揚げ油や、衣のうどん粉やらパン粉が無くなって、芦峅寺の従弟に伝令を出して何度も荷揚げをさせるほどの商売繁盛だった。
 しかし夏の盛りが過ぎ、登山客の足がぱたりと途絶えるとともに、ヒコ叔父の「ピョンカツ」商売も終わった。
 その時ヒコ叔父はいくら稼いだのだろうか。
 山を下りて意気揚々と家に引き返してきたヒコ叔父の顔は、末っ子の幼顔から一人前の男の顔に変わり、その肩には未だ幼子だった私への贈り物の三輪車が担がれていたと云う。
 そしてこの立山室堂の「ピョンカツ」はその後二度と売られることはなかった。翌年ヒコ叔父は地元鉄道会社に採用され、その後は会社員としての人生を送ったからである。

 大酒飲みで、父によく似たヒコ叔父は七十八歳の今も元気で、先に逝ってしまった叔父にも、祖父宗作にもよく似ていて、私には今や、「昔のわが家」に繋がるただ一人の叔父である。



 十、  小屋開け間近

 芦峅寺は標高約400メートルの山村だ。
 標高はさほど高いとは思わないが、雪の多さはかなりのもので、年間4〜5ヶ月間は村に雪があるし、また村が雪に埋まっている時期も3ヶ月はある。
 だから、村人の春を待つ気持ちは強い。
 しかし私たち山小屋の親爺は、ちょっと違う。
 春を喜び楽しむ間もあらばこそ、未だ雪に埋まっている立山へ戻らなければならないからだ。
「お〜い、かずやぁ〜、わぁいつこやへあがらんよ?(訳:オ〜イ、和よぉ、お前は何時山小屋へはいるのだ?)」
「お〜、はつかごろにはいりゃいいかろがい。わかいしょはほのまえにあがれどよ。わぁ〜いつはいるがよ?(訳:おぅ、二十日頃に入れば良いだろう。若い衆はその前に小屋へ入るけれども。お前は何時はいるのだ?)」
と、両隣の剣山荘や、早月小屋の親爺達との挨拶も、小屋開け入山時期の交換となる。

 昔は3月9日の山の神様の祭りの後になれば、山へ入っても良いとされていて、小屋開けも3月の20日過ぎには入ったものだ。
 私の父の代などはそれが当たり前だったようだ。
 今のようにヘリコプターも使えず、除雪に機械力も使えない頃で、物資輸送から除雪までまるきり人力のみだったのだから、そのくらいの時間がなければ小屋開け出来なかったのだろう。
 しかし今や小屋も立派になったし、除雪はブルを使い(剱御前小舎は未だに人力だが)
物資もヘリコプターで、トン単位の荷物を一時に運べる。
 だから小屋開けも年々楽になって・・・とばかりは行かない。
 半年も雪に埋まっていた山小屋を開け、限られた時間でお客さまをいけ入れられるようにする作業は時間との戦いだし、その年その年の天候に左右されることおびただしい。
 大自然ほど素晴らしいものはないが、大自然ほど当てにならぬものもない。
 所詮人間など、大自然の中で何とか生かされているに過ぎないと言うことを、嫌と言うほど思い知らされながらの、毎年の小屋開けである。
 一日がかりで掘り出した玄関が、翌朝には新雪ですっぽり埋まっている、等ということは当たり前で、人間も臨機応変に立ち回らなければとても小屋開けは終わらない。

 だが今や、親爺もちょっと年を取って、若いスタッフと一緒に入山はできない。
 小屋開けの第一陣は支配人の心平がリーダーで、(実は細君の緑が実権を持っている)他のスタッフを引き連れ入山する。
 第一陣の入山を待って芦峅寺ヘリポートから食料などを剱御前小舎に送るのだが、そのシーズン初めての立山への物資輸送は、今や山里の季節を代表する行事に数えられていて、テレビ局や新聞社の取材が必ずあり、かなり賑やかで、親爺もそのどさくさに紛れ剱沢小屋や早月小屋の親爺達と相乗りして、ヘリコプターで入山することになる・・・
 標高400メートルの芦峅寺からいきなり標高2760メートルの剱御前小舎に、僅か20分ほどで入る。
 だから、いくら毎年のこととは言え親爺は高度順化に数日かかってしまい、ただでさえたいした戦力にならぬのが若い衆の足を引っ張らないようにするだけで精一杯という情けないざまとなる・・・。が、親爺はめげない。
 二言目には「俺の若いときにゃよぉ・・・」と、決まり文句で空威張りし、「今の若い連中は・・・」とさらに決まり文句をつぶやきながら、実はスタッフのみんなに感謝しているのだ・・・。若い連中がいなければ小屋開けにならないのだから・・・・・。
 親爺の小屋開けも、若い時とはずいぶん変わってしまったものである。



 十一、  親爺とホームページ

 今年も又親爺は、雪に閉ざされた山小屋に戻ってきた。
 下界は暖かくなり、桜前線やら山菜採りやらと、春に酔っている頃だが、ここ立山の山奥の山小屋はすっぽりと雪の下に埋もれている。
 今朝も吹雪いて、窓の僅かな隙間から粉雪が吹き込み顔にかかって目が覚めた。
 親爺が目覚めてまず最初にすることは、ストーブに火をつけることである。
 火をつけてから又布団に潜り込み、部屋が暖まるのを待つのだが、布団の中でまどろんでいる間は、外の風音がヒューヒューと聞こえるばかり。
 その中に部屋が少し暖まり、ストーブにかけてあるやかんが湧いて、吹く音がする頃に親爺はゴソゴソと布団から這い出す。
 雨戸が凍結して開かないから外の様子は見えないが、風の音と、吹き込む僅かの粉雪と、雨戸の隙間から差し込む光で、今が吹雪の朝だと知るばかりだ。
 お客さまの居ない日の山小屋は、時間を気にしない。でも習慣で腕時計を見ると午前六時前、食事もスタッフだけなので七時を過ぎるだろう。
 着替えもそこそこに沸いたお湯で珈琲を入れ、ゆっくりと朝のいっぱいを楽しむ。
 外の吹雪の音を聞きながら、ストーブで暖かい部屋でゆっくりと飲む寝覚めの珈琲のうまさと言ったら、それは堪らない。
 水が貴重品の山小屋の、しかも全てが凍てつく春の小屋開け直後の剱御前小舎で、親爺は顔を洗うという事を決してしない。
 一応電気カミソリで髭をサッとそり、濡れティッシュで顔を拭き、ベビーオイルを薄く塗れば、親爺の朝の身繕いは完璧なのだ。
 そうこうしている中に突然、親爺部屋の蛍光灯が眩しくともる。
 発電機が元気に回り出したという事は、支配人以下スタッフも動き出したようだ。
 さあ、これからが親爺の朝仕事の開始である。
 カメラをぶら下げ、親爺は完全装備で外に向かう。
 ホームページ用の写真を撮影し、ホームページを更新するのが親爺の重要な仕事となっているからだ。(まともな親爺の仕事はこれだけ・・・)
 が、今朝のような吹雪の日には親爺は外には出ない。出ようにも出られない・・・。
 仕方がないから食堂の窓(この窓だけは石垣の陰で一年中開きやすい)から外を撮影したりして適当にごまかす・・・。
 それでもさすがは雲表2760mの剱御前小舎、今朝のような凄い吹雪の写真が窓から撮れるのである。
 親爺が撮影した写真をコンピューターで縮小し、ホームページの更新に取りかかる頃、朝食の声がかかる。
 炒り卵に味付け海苔、佃煮、味噌汁、等々親爺もスタッフと一緒にたっぷり食べ(剱御前小舎では親爺はダイエットを気にしない)、その後、仕事にかかるスタッフを尻目に親爺はしばし親爺部屋に籠もることになる。
 ホームページの更新と、メールのチェック、メールへの返事等々と、モタモタしていると直ぐ十時になりお茶の時間になっていて、どうかするとこのティータイムを終えてからも未だ更新作業に時間がかかることがある。
 今日のように、突然青空が広がり、新雪に覆われた山々がくっきりとその姿を現したりするからだ。
 どうしてこれが見捨てておかりょうか、となる訳で、親爺は又写真撮影からの作業を繰り返し、ホームページの更新に全力投球するのである。
 今朝の新雪の剱は見事だった。
 親爺が目の当たりにしたこの山々の素晴らしい景観を、例え写真でも即座に日本全国、いや全世界に向け発信提供できるのがホームページなのである。
 「親爺さん今朝の写真凄く良かったね。」等というお客さまのメールを頂くと、親爺はもう嬉しくて嬉しくて、寝起きの珈琲以上に、これは堪らないのだ。


 十二、  山菜の頃

 正直なところ、私は山菜採りが好きではない。
 好きでないと言うことは決して上手にはならないと言うことだし、私は好きでないことはなるべくしない主義だ。
 だが、我が山里では春のこの時期ともなると、「朝、寝てちゃおられんわい。もたもた寝とる間に、誰かに採られたらどうもならん。」と言うわけで、人先に起きて山へ分け入る連中が多々いる。
 この連中がねらうのはもちろん山菜であり、ウド、竹の子(根曲がり竹の竹の子)、こごみ、ワラビ、ぜんまい等々である。
 おそらくもっと種類もあるのだろうが、山菜採りが嫌いで、全くしない私にとって思いつくのはこの位で、早起きの山菜採りが大好きな連中から言わせると、「あのダラ、なぁ〜んにも知らん。」と言われそうだから下手なことはあまり書かない。
 それでもこの連中はおおかた心優しく、しかも私の友人だったり、いとこだったりするので、「お〜い。これちょっこしだれど喰えよ。」と山菜採りをしない私に、収穫の幾ばくかを分けてくれるのである。
 今年もウド、エラ(深山イラクサの若芽)、竹の子とすでに初物を頂いた。山菜採りをしない看板を上げている分、却って得をしているような気がする・・・。

 我が山里ではこの山菜採りを「山菜採り」とは言わなかった。
 なぜかはよくわからないが「アイモン」と言った。魚介の塩干物類を四十物(アイモノ)と言うが、このあたりの言葉との繋がりもあるのだろうか・・・。
 しかし、芦峅寺で云うアイモンは多分、「間物」のことかと考える。
 長い冬で越冬野菜も食べ尽くし、春を迎えてもまだ畑の収穫は見込めない頃、近隣の山野に芽吹く山菜(やまくさ)を収穫し、初夏に畑からの収穫が得られるようになるまでの間に食べた物、と言うことでは無かろうか。
 ただ、このアイモンという言葉は、「アイモンに行くまいか(山菜採りに行こう)」と言うような使い方が多く、「山菜採り」と云う行為を表している事が多かった。しかし時には「アイモンばっかし喰っとるちゃ。(山菜ばかり食べているよ)」と言う使い方もしたから山菜そのものを指す言葉でもあったようだ。

私の祖母が生きていた頃、コゴミ、ぜんまいなどは乾物として保存し、ウド、竹の子などは塩蔵したものだ。
 乾物はともかく、竹の子やウドなどの塩蔵品は漬け物が一切だめな私にとって、決して好む物ではなかった。
 正月のお節の煮染めなどに入っている竹の子は誠に美味しそうなのだが、独特の漬け物臭がして、私には苦手な物だった。
 ところが、大学生だった私がある年末に帰省した時、未だ元気だった祖母がにこにこと大きな煮染めの鉢を私の前に持ってきて、「あんまや、この竹の子食べてみぃよ。臭ない竹の子だじゃ。」
 一瞬私は「まいったなぁ。」と思ったものの、にこにこ笑う祖母の笑顔にあらがう術はない。「ほんなら、一つ食べてみろか。」と、なるだけ小さな竹の子をつまんで口に入れた。と、全く漬け物臭がしないどころか、新竹の子の清々しい香りがし、驚いた。
「ばあちゃん、こりゃ新の竹の子な?こんな時期に。」と驚く私を嬉しそうに見ながら祖母は「ははぁ。あんまもだまかされたなぁ。どうだい美味かろうがい。こりゃあ缶詰だちゃ。あははぁ。」
 村はずれに出来た缶詰工場で、持ち込めば竹の子の缶詰が出来るようになったのは、ちょうどその頃、もう三十数年も前のことだ。
 この工場は今でも内蔵助山荘の常さんが経営していて、かの親愛なる早起きアイモン連中は、これに力を得てますます力を込めて野山を駆けめぐっている。
 「お〜いアイモンの衆や、竹の子の缶詰待っとるぞ〜。」

 十三、   児童書「エスキモーのふたご」
 
 今から半世紀ほど前、我が山里の小学校には屋根裏部屋をちょっと改装した様な小さな図書室があった。
 その図書室には本が、それはそれは驚くほどタクサン有った。少なくとも当時一年生か二年生だった私にはそう思えたのだ。
 ひらがなを拾い読み出来るようになって有頂天だった保育園児の頃、祖母や母におだてられてカルタや絵本に親しんだ。漢字も少し読める様になり、漫画のおもしろさに惹かれ始めたぴかぴかの一年生の冬、父が所用で出かけた町からの帰りに一冊の漫画と、別に一冊の「イソップ童話集」という文字の多い本を買ってきてくれ、でも、父は私にイソップ童話集だけを渡し、言った。
 「漫画読みたけりゃ、はじめにこの本を読め。そして後で何を書いてあったか、父ちゃんに聞かせや。そうしたらこの漫画も読ませてやる。」
 漫画が読みたい一心である。文字が多く絵が少ない本は、学校の本(教科書)の様でいやだったが、とにかく何が書いてあるか目を通し、父に言わなければならない。
 仕方なく私はイソップ童話集を開いて読み始めた。
 文字が多く絵は少ない、とは言え児童書である。
 挿絵もきれいだし、それなりの速度で文字を読めるようにもなっていた私にとって、そのイソップ童話集はいざ読みかかると、意外にも面白かったのだ。
 直ぐ本に引き込まれた。本の中には別世界広がっているのを初めて知ったのである。
 読み進むにつれその世界はぐんぐんと広がり、次々と興味がわいて来てもう夢中である。
 面白いとか、楽しいとか言う域を超えた本の魔力とでも言おうか、文字を追って読み進むことで、目の前に次々と新たな世界が、無限に広がることに興奮した。
 父のもくろみは見事にあたった。この日を境に私は「本の虫」になったのだ。
 しかし当時の山里には本屋も、貸本屋もなかった。
 たまに町へ買い物に行く祖母や母に連れられて、本屋で一冊の本を買ってもらうのだが、それとて年に数回である。
 だから、少年の目覚めた読書欲は小学校の図書室でしか満たされなかった。が、正直なところ当時の山の学校の図書室なんて、それはお粗末なものだったのだ・・・。
 低学年の頃にはとてもタクサンあるように思えた本も、借り出しの常連さんになるや、あっという間に読み切って、三年生にもなると全く物足りなくなる程度のものだったのである。
 だから、だろうか。
 興味を持ったり、感動した本の幾冊かは何度も何度も借り出して読み返しており、半世紀も過ぎた今になっても心の深いところに残っているのだ。
 「エスキモーのふたご」はそんな児童書の一冊だった。
 メニーとモニーというエスキモーの双子の家族と生活が面白くかかれているのだが、その父が若い腕の良い猟師だったり、猟で得た獲物の肉を村人と分け合って食べたりという生活が、その当時の我が山里芦峅寺の生活にオーバーラップしたのだろう。物語の登場人物すべてに非常な近親感を覚えながら、物語の世界に遊んだのだ。
 特にお気に入りだったこの本はいったい幾度読んだだろうか・・・。
 しかしこの「エスキモーのふたご」は小学校の図書室の本だったから当然手元にずっと置いておくわけには行かず、小学校を卒業してからはついぞ巡り会うことは無かった。
 しかし、巡り会うことのなかった本ではあるが、その本は半世紀の間私の心から消えることなく、折に触れては思い出す懐かしい本として心に残っていた。
 ある時は神田の古書店を探したり、インターネットが使えるようになり情報交換環境が飛躍的に良くなった十年前程前からはネット検索で探してみたこともあった。
 だがそれは全く見つからず、わずかに児童図書館の蔵書として、データーを閲覧できるに過ぎなかったのである。
 それが還暦を目前にした今になって、インターネットの検索ページで販売されているのを見つけた。しかもわずかな値段である。私はためらわず注文をし、数日の中にその本が手元に届いたのだ。
 挿絵カバーもかなり傷んではいるが、かつての図書室の本より程度が良い位であったし、何よりもその挿絵の中には、半世紀前の記憶通りに、メニーとモニーが氷原に穴を開けて、魚を釣っていた。
 きっとメニーとモニーは50年もそうやって私を待っていてくれたのだろう。私も心のどこかにメニーとモニーをいつも抱いていたのだから。
 この「エスキモーのふたご」は今、何にもまして大切な私の蔵書となったのだ。

  十四、  タテヤマリンドウの咲く頃

 立山に又夏が来て、標高2760mの剱御前小舎の周りにも花々が咲き出した。
 天気の良い朝、宿泊客を送り出した後で、カメラを片手に写真を撮りにうろつく事が、今は剱御前小舎親爺である私の日課となっている。

 標高の高い稜線上の山小屋の周りには花が咲き乱れる高原のような趣はない。
 可憐な高山植物が、ハイマツの陰に慎ましやかに咲いているばかりだ。 
 快晴の今朝も真っ青な空につられ、御前山のあちこちをうろついて来た。
 花には余り詳しくない私だが、イワカガミやヨツバシオガマ、イワツメクサ、ミヤマキンポウゲなどに混じって薄紫の小さな花を開いたタテヤマリンドウを見つけた。
 私はタテヤマリンドウをカメラに納めながら、半世紀も昔の剱御前小舎の夏を、突然思い出していた。
 
 母が、小学生の私を目の前に座らせて、優しく何か言っている。
 「いいかい。こうやって花を綺麗に新聞の上に並べて、その上に又新聞を重ねて、その上に本をいっぱい載せて、重しにして、何日か待ちゃ、押し花になるからなぁ。」
 それは剱御前小舎のランプの下での事だった。
 当時父が経営していた剱御前小舎には滅多に登ることの無かった母だが、その時は私と妹と一緒に母も剱御前小舎に登ってきていたのだ。
 例によって私にとっては山小屋は天国で、遊びほうけてばかり夏休みの宿題も何も、もちろんやっていない。
 そんな私を見かねた母が、せめて自由研究の宿題でもと、「立山の高山植物の押し花」作りをさせようとしたのだろう。
 今から思えばのどかな時代である。
 子供の夏休みの自由研究に「立山の高山植物の押し花」が我が山里の「芦峅小学校」では非常にポピュラーだったのだ。
 その頃は未だ自然破壊だとか、高山植物の保護だとかは余り言わなかった、いやそれどころか、そんなことは誰も知りもしなかった。
 もちろん親子そろって何の罪悪感もなく、国立公園内の高山植物を採取した・・・が、私はと言えば何分にも腕白盛りのきかん坊である。
 その辺のハイマツの陰や、斜面にはピンク、白、黄色、紫の花々が採り放題に咲いていたのだから、しかもそれは宿題をするという名目の下で行うのだから、片っ端から手加減無くむしり取ろうとした。
 と、流石にそれを見かねた母が、「これ、これ。そんなにメチャクチャに花をいじめたらだめだぞ。押し花にする分を少しだけ採りゃ良いがじゃ。立山の神様にちょっとだけ宿題に使う花を頂きます、と言うて採らんにゃ罰が当たるぞ。」
 信心深い、宿坊育ちの母だから、大自然への敬虔な敬いは常に持っていて、それを立山の神様として私に諭すのである。
 しかし優しい母に諭されても腕白小僧。
 「へへへ、母ちゃん、な〜んつかえんちゃ(なーにだいじょうぶだよ)おりゃ、ちょっとだけしか花ぁ採らんから立山の神様も罰ちゃあてんちゃ。」と言いながらそこらを駆け回り花々を踏み荒らすのだ。
 「これ、これ。今度は花を踏んでばかりじゃ。もうちょっと気をつけて歩かんとだめだちゃ。」母は決して声を荒げることなく、優しく私を諭すのだった。
 父は父で、小さな妹を肩車しながら、可笑しそうにそんな母子のやりとりを見ていた。 まことにのどかで懐かしく、心和むこの夏山のワンシーンは、半世紀を経た今でも思い出す事が出来る。剱御前山の三角点前の小平(こだいら)でのことだった。

 件の押し花はしっかりと新聞紙に挟んで、私が背負って芦峅寺の山里へ持ち帰った。
 母や祖母にに手伝ってもらいながら、出来上がった押し花を画用紙に貼り付けて、「立山の植物の押し花帳」は完成したのだ。
 押し花帳は酷い金釘流の文字が邪魔だったが、押し花自体はかなり綺麗で、その中でも一番綺麗で、かわいらしいと思った花がタテヤマリンドウだった。
 そして立山の名を冠していたからかだろうか、私が一番先に覚えた高山植物の名がタテヤマリンドウだったのである。

 優しかった母や、祖母はもう逝ってしまって、若くたくましく強かった父も今は老い果て、濃い立山のガスに包まれたような世界にいる。
 だが何十世代かを経たタテヤマリンドウは今年も剱御前山に花開いて、やはり今や老いたあの往年の腕白小僧を迎え、半世紀前に誘ってくれるのだ。


 十五、 立山の秋

 今年の夏は異常な暑さだったと言うが、山小屋の親爺である私はその暑い盛りを山で暮らしているので、殆ど暑さ知らずだった。
 殆どというのは、私には旧盆の時期だけはご先祖の墓参りに下山するのが習慣となっていて、その旧盆の数日の堪らない暑さは少しばかり知っているからである。
 しかし九月に入って、観測史上もっとも暑かったと言う今年の夏が、標高二千七百六十mの剱御前小舎にいても解るようになってきた。
 いつまでも暖かいのである。
 例年なら寒さを感じる九月の明け暮れに、朝も晩も寒さがないのだ。
 掛け布団に毛布を重ねないと寒くてとても眠れないはずの夜が、毛布を重ねていると汗ばんで、とても眠れないのである。
 ある意味ありがたいのだが、何やら秋の気配も薄いような気がして落ち着かない。人間は慣れ親しんだ四季の移ろいにかなり敏感に出来ているようだ。
 昨年は九月十三日に初雪、その三日前に初氷を観測したが、今年は二十四日の今朝になってようやく初氷を観測した。半月の季節のずれである。
 紅葉もその通り、昨年は二十二,三日には色付いていた雷鳥沢も黄ばんできたばかりだ。

 とは言え、季節はちゃんと巡っていて今朝も写真を撮りに外へ出ると、あっという間に寒さが体にしみ通って来て思わずフリースのジッパーを首まで上げた。
 カメラを手に辺りを見回せば、朝の光の中に緑に青々と輝いていた草花は全くなくなっている。
 もう緑はハイマツだけだ。
 秋の雲間から指す日の光は弱々しく、クリーム色の剱御前小舎の壁面を照らしているが、その佇まいはやはり回りの秋色に染まり寂しげである。夏の青々とした空気の中のクリーム色では無いのだ。

 立山の夏はとても短いが、立山の秋はそれにもまして短く、それこそ有りや無しやのうちに冬になる。
 しかしその短い山の秋の、貧しげでけれど色濃い情景には、私は他のどの季節の情景よりも強く心惹かれる。
 それは決して哲学的な思索からではない。
 もちろん、ポール・ベルレーヌの「落ち葉」に詠われるような高尚なもの想いからでは有るわけもない。
 それは私にとっては、何ものにも代え難い充足感を伴う情景なのであり、その充足感とは「今年も無事に立山を仕舞った。」と言う充足感なのだ。
 
 祖父もそうだった。父もそうだっただろう。
 立山に生きてきた我が芦峅寺の男達には、立山を仕舞う直前のこの時期ほど、心満ちる時期は無いのだ。
 
 この先、長い冬を越すだけの糧は今年も立山で稼がせてもらった。稼ぎの多少は有ろうが、そんなものは天下の回りものと言うではないか。思い煩うこともない。
 目の前に広がる日々は、長い冬の日々とは言え自由な休養日であり、それは数ヶ月も続くのである。心は稼ぎ以上に豊かになる。

 立山の、貧しげでけれど色濃い秋の情景は私の遺伝子の中にもすり込まれていて、私は小屋の窓からその情景をながめながら、どんな詩人にも負けないような豊かな心持ちを味わっている。
 詩人との違いは、その心持ちを詩にする術がないだけだ。


 十六, 剱御前山の老夫婦

 剱御前小舎の前に佇む小さなピークは、嘗て「つるがごぜん」とも呼ばれ、「鶴ヶ御前」と書かれたりもしていたようだ。
 現在は剱御前山、或いは御前山と呼ばれているが、別山尾根上の小さなピークである。
 最近このピーク、随分人気が出てきた。

 剱御前小舎の目の前をゆっくりと御前山に向かい登れば、五〜十分で視界が広がり、この山の最高到達点である、小さな岩峰が平坦に延びた尾根の先に見えてくる。
 この岩峰を巻くように、少しだけ下ると細い尾根に出、左側は鋭く立山川に続く谷に切れ込んでいて荒々しい山の姿を見せているが、しっかりした道型が平坦に続き、直ぐ緩やかな小平が広がってくる。
この小平の右手前方には剱がそびえ立ち、やや左側に道が続いていて、御前山の三角点がある。ここで映画「剣岳点の記」の撮影も行われた三角点だ。
 しかしこの三角点を最期に道は途絶える。
 この先クロユリのコルに至る登山道が崩落し、廃道となっているのだ。
 かつて、剱御前小舎から御前山を超え、クロユリのコルにいたり一服剱に取り付くルートは、剣岳登山別山尾根コースで、剱沢から一服剱に取り付く剱沢ルートと双璧をなす、最もポピュラーなコースだった。
 現在は剱御前小舎から剣山荘を経由するコースと、剱沢コースがあるが、クロユリのコルを通るルートは一部地図上に残っているだけで、通行は極めて困難、廃道となっているのだ。
 廃道となったとは言え、このルートには不思議な魅力があるようだ。
 ある日の午後、剱御前小舎をふらりと出て、親爺はサンダルを突っかけたままこのあたりを散歩していた。
 岩の上に腰を下ろして咲き始めたイワカガミや、ハクサンイチゲなどをぼんやり眺めていると陽射しが暖かく、ウトウトとしてしまいそうな初夏の日で、目の前の剱岳もくっきりと見えていた。
 少しまどろんだのだろうか、自分の大あくびで我に返ると、剱御前小舎の方から続いている道に二人の人影が見えた。
 さて、小屋に戻ろうと、親爺も腰を上げ、その人影の方に近づいてゆくと、かなりのご年配の上品なご夫婦が「こんにちわ」とお声をかけて下さった。
 「あら、山小屋のかたですね。サンダルでこんな処までいらっしゃるのね。」と奥様。
 「はい。剱御前小舎の親爺です。ご夫婦で散策ですか?」と親爺。
 「僕は剱が好きでしてね。もう登れないからここに来て剱を眺めるんです。ここは昔の北アルプスの面影が一番残っている場所だと思ってるのでね。」とご主人。
 「本当よ。昔の北アルプスをここで思い出すんですよ。自分も若くなったみたいに。」と、又奥様。お二人ともニコニコと笑顔が素晴らしい。

 「私もここが大好きで、子供の頃からここは私の遊び場でした。どうぞお気をつけてごゆっくりお楽しみ下さい。」と、親爺はこのご夫婦に深く頭を下げて小屋に帰った。
 たったこれだけの会話だったが、親爺はこの会話が強く心に残り忘れられない。
 自分の大好きな剱御前山三角点の小平を、同じく心に留めて下さって、しかも親爺も良く知らない「昔の北アルプスの面影」がここに色濃くあると言って下さった老夫婦の笑顔の素晴らしさも、忘れられない。
 純粋な「山への想い」の結晶をこのお二人の姿に見た、と言っても過言ではあるまい。

 親爺も間もなく還暦を迎える。
 そしてもう少ししたら、オカカをつれてこの剱御前山を散策しよう。
 その時はきっと、この巡り会ったご夫婦のような笑顔で剱を眺めてみたいと思っている。

 十七、 大日小屋の夕日

 大日小屋は戦前、母の実家である「日光坊」が経営していた。
 日光坊は宿坊だったので、立山参拝に訪れる人々の世話をすることには慣れていたから、山小屋運営もさしたる違いはなく、順調に経営を続けていた。
 しかし戦争の影は立山にも及び、登山客が殆ど訪れることがなくなって、大日小屋も経営が難しくなっていった。
 そしてそれどころか、戦争は日光坊の大切な次男、行忍和尚(貞弘)をもフィリピンの激戦地で奪ってしまったのだ。
 一家は嘆き悲しんだ。
 厳格で感情を表に表したことなど無い当主の、義道和尚の嘆きはことに激しく、天台宗円隆寺の後継者として、他家へ養子に出していた息子行忍への想いを隠そうとはしなかったと云う。
 そして終戦。
 山里の一家も嘆き悲しんでばかりはいられない、世の中がやって来た。
 細々と田畑は耕しているものの、昭和二十年は不作で殆ど収穫が無く、翌二十一年も又不作に襲われ、万事窮したのだ。

 「大日の小屋に米が置いてあったなぁ。」見る影もなく衰えた義道和尚だが、一家の困窮に際してはやはり当主であった。大日小屋に荷揚げしてあった米に気付いたのだ。
 義道和尚は、三男の泰正、長女茂、次女緑、三女稲子を引き連れて大日小屋を目指した。
 長男の延一は二度にわたる招集で出征し、復員してはいたものの、未だ山に登れるような体力はなかったし、末っ子の淳子は幼すぎた。

 芦峅寺から立山道を約14km、大日への登り口のある称名に着く。ここから猿ヶ馬場、牛の首の尾根の難所を越え、大日平に出、樹林帯の小沢を縫うように大日の稜線を目指す。
 苦しい長い登山であったはずだが、若かった母や、伯母達や伯父には、楽しい家族登山だったと云う。
 祖父義道にとっても久々に楽しそうに振る舞う我が子等の姿を眺めながらの登山が、肉体的にはともかく、決して辛いものだったとは思えない。
 一家はあえぎながらも、楽しげに、ついに夕刻大日小屋にたどり着いた。
 小屋は荒れてはいたが、潰れもせず、破られもせず昔通りに建っていて、何俵かの米と、缶詰類などがちゃんと残っていた。
 若い娘達や、逞しい息子が賑やかに小屋の外で火を焚き、久しぶりに見る豊かな食料をふんだんに使って夕食の支度を始めた。
 「お父さん、この缶詰使っても良いかい?」祖父義道に一番可愛がられていた母稲子が鮭の缶詰を振り回しながら無邪気に言った。傍らには茂、緑、泰正がにこやかにたき火を囲んでいる。
 次男行忍の戦死以来、悲しみにうち沈み、憔悴仕切っていた義道和尚の顔に、久々の笑顔が浮かんだ。
 「おお。良いぞぉ。何でもあるものは好きなように食べやぁ。」聞いたことのない様な優しい声音で義道和尚が我が子等に応えた。
 小屋の手伝いをしていた事もある、茂伯母が手際よく指揮を執り、その夕食は鮭缶入りの雑炊となった。
 「あの大日小屋で食べた、鮭の缶詰の入った雑炊は忘れられんちゃ。お父さんも本当に嬉しそうで、あんなきれいな夕日ちゃ見たこともなかったな。」とは、後年の母や、伯母の言葉である。
 三女である母稲子と四女の叔母淳子にはかなり甘かったと云う祖父義道だが、泰正伯父や、茂伯母、若くして逝った緑伯母達には厳格で、口答え一つ許さなかったらしい。
 その厳格な義道和尚が、我が子等に示した心の底からの愛情が、大日小屋を染める夕日に溶け込んでいたのだろう。
 
 その僅か二年後、義道和尚は息子行忍に導かれ極楽へ去った。

 今、母や、叔母達もまた祖父義道の元に去っており、泰正伯父がこの日の大日小屋の夕日を知る唯一の生き残りとなっている。

 今度下山したら、泰正伯父にもう一度この話を聞いておくことにしよう。
 八十五歳になる伯父は涙を流して大日小屋の夕日を語ってくれるだろうし、私も涙を流しながら、伯父の話を聞くことだろう。 


 十八、 喰い意地  

 食べると云う事と生きると云う事は、同じ意味を持つ。などと言うと「人はパンのみで生きるにあらず」との反論が聞こえてくるが、この言葉は「人はパンなくしては生きられず」とも聞こえるし、「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉の方がより人間の本質を言い当てている様な気もする。
 さて、こんなことは改めて考えるまでもないのだが、人も動物も食べること無くしてはその命を保つことは出来ない、つまり生きられないのだ。
 これは最近、歳と共に強まってくる自分の喰い意地への弁護かも知れないが、私の食べ物への興味はあながち歳と共に強まって来たとばかりもいえない。

 ひどい偏食だった子供時代から、私は妙に食物に興味を持っていた。今思い返すと偏食だった故に、自分が食べられない食材、全く知らぬ食物への「怖いもの見たさ」に近い興味を持ったのかも知れない。(今でも私は、漬け物は一切受け付けぬし味噌は好まない。だから私たちの年代の平均的日本人の好む、味噌汁と漬け物は私にとっては喰えぬもの、好まぬものの代表である。しかし今やこの二種以外大凡のものは食べるようになった。)
 夢中で読みふけった十五少年漂流記や、ハックルベリー・フィンの冒険などに出てくる食べたことも聞いたこともない西洋の食べ物、(あの当時の翻訳者の食物知識は、今の時代から見ると可笑しいくらいに乏しく、又、それを読む昭和の子供たちにはそれで十分だったのだろう)やや長じて夢中になったルイザ・メイ・オルコットの一連の作品に出てくる、古いアメリカの食物の数々、もちろん次郎物語、坊っちゃん、しろばんば等々の日本の名作に登場する食べ物にも大きな興味を持った。とにかく食べ物が出てくるシーンは全て、印象強く心に残ったし、未知の食べ物については、幼い想像力を極限まで膨らませ、その興味と好奇心を持ち続けていた。

 今ちょっと思い出してみても十五少年漂流記に出てくる保存食らしい肉入りビスケット、ハックが奴隷のジムとミシシッピー川を逃亡中に釣り上げたナマズの平鍋バター焼き、第三若草物語りで出てくる暖炉で作る焼きリンゴと、焼きマシュマロ等々は、今ならだいたい想像も付くし、さほど珍しくもないが、あの頃の私にとってはまさしく「未知の食べ物」だった。
 又、こんな話となると決して欠かすことの出来ない、ローラ・インガルス・ワイルダーの大草原シリーズや農場の少年には、古いアメリカの開拓農民の食卓が、生き生きと、それはそれは美味しそうに描かれいて、アメリカのみならず世界中で愛読されているが、ついにはこれらの物語の中の料理に、可能な限りの時代考証を加えレシピとして再現した本までが出てきた。
 もちろん私も早速購入し夢中で読んでだ。しかしこの本の末尾には、”実際に再現された料理は、忠実に再現しようとすればするほど現代人の口には合わなくなり、決して全てが美味しいものではなかった”との率直な一文が添えられていて、それには私も深く感じるものがあった。
 もちろん、 西洋の食べ物よりは遙かに身近な、日本の物語の中の食べ物も、身近であるが故に一層鮮やかな印象として心に残っている。
 次郎物語では意地悪な祖母が作る、決して次郎の口には入らない”卵の壺焼き”、坊ちゃんでは、主人公が四杯も平らげた天ぷら蕎麦、しろばんばではおばあさんの作る大根入りのごった煮カレー、更に藤村の大著「夜明け前」では、大食の賭けをされるアトリの焼き鳥等々、これも切りがない。
 そして私にとって極めつけは、中年以降にどっぷりとはまって未だに必ず身近に何冊かを置き、再読、再々読を繰り返す池波正太郎氏の作品群である。
 氏の一つ一つの作品の面白さや価値は言うに及ばぬが、著作の全てが、食べ物に関する情報源としても私には宝庫であり手放せないのだ・・・・・。

 食べ物は人間の命の根源である。だから、その命の先行きに終わりが見え始める年齢ともなれば、己が命を愛おしむがごとく、その根源にたる食べ物にも執着する様になるのだろうか。
 私も歳と共に食い意地が張ってきたとばかり思って来たが、こうやってゆっくり考えてみると昨今の自分の、喰うことへの拘りやら執着の強まりも、何となくいじらしいような気がする。たぶん決して意地汚いばかりではないのだ・・・。


 十九、 剱沢からのおはぎ 

 親爺は今年、久々にお盆を剱御前小舎で迎えている。
 毎年お盆だけは芦峅寺の山里に降りて、年に一度帰り来るという母や祖父母等の精霊を迎え、送る事を慣わしとしていたからである。
 が、親爺がそんなに信心深いかというとそうではなく、正直を言うと、夏期休暇で帰省する娘達の顔が見たいと言うのが本当であるかも知れない。
 この夏はその次女、三女共に帰省が遅れ、二十日過ぎになると言う連絡があった。
 だから親爺も久々にお盆を小屋で過ごし、娘等の帰省に合わせ下山することにしたのだ。

 そんな訳で、今宵のご先祖様の精霊迎えは、家内と長女に任せ親爺は晴天の剱御前小舎で、のんびりとお盆を迎えたのであるが、朝、剱沢小屋の女将さんである、里子姉から電話が入った。
 「アルバイトの青年の、データー通信装置が不調で、コンピューターを使って更新しないと使えなくなったが、剱沢小屋にコンピューターがないので、剱御前小舎のコンピューターを使って更新してやってくれ」と、まあ、こんな話の内容だったが、もちろん里子姉がこんな技術的な話をスムースにしたわけではなく、約五分ほどの愉快な会話の中から親爺なりに抽出して意訳した結果の会話である。 「お〜い。わかったぞぉ。そのバイトの子を剱御前小舎までよこせよ。何とかするちゃ〜。」と答えておいた。
 そして二時間ほど経って、件のバイト氏が剱御前小舎に来た。
 何度も顔を見ている、バイトの青年で礼儀正しく挨拶をして、「これ女将さんからです。」と何やら大きめの菓子箱を差し出す。
 何だろうと見ると、何とおはぎである。しかもたっぷりと、大人数の剱御前小舎スタッフ全員が食べられる量の、小豆餡、きな粉、ゴマの三色のおはぎなのだ。

 ああ、そうか今日からお盆だ。さすがは里子姉・・・と、親爺は七年前のお盆を思い出した。
 二足のわらじを脱ぎ、長年勤めた会社を退職し、いよいよ山小屋親爺業一本で第二の人生をスタートした年だった。
 あの時は、親爺も未だ一寸初々しく、お盆も剱御前小舎に頑張っていたのだが、そんな親爺のもとに剱沢小屋の里子姉からおはぎが届いたのだ。
 芦峅寺の山里では、お盆におはぎを作り仏前に供えそれを頂くという習慣がある。年に一度だけ帰ってくると言う、ご先祖様の精霊に捧げそのお下がりを頂くのだ。
 だが、まさかそのおはぎを剱御前小舎で頂けるとは夢にも思っていなかった親爺である。
 だから親爺は感動した。そしてあの時の思いもかけぬおはぎは、この上もなく美味かった。

 あれから七年、剱沢の里子姉からまた、七年ぶりにお盆に剱御前小舎にいる親爺におはぎが届いたのだ。有難い・・・。
 データー通信装置の更新作業をしながら、剱沢小屋のアルバイト氏と、そんな話をしているとそこへ我が剱御前小舎の副支配人ヒデも来て、「里子さんは毎年お盆におはぎを作って、六里塚にもお供えして居るんですよね。」と親爺の思いもかけなかったことを言った。
 
 六里塚とは昭和五年の、剱沢の大雪崩れによる六名の犠牲者を祭った塚である。
 剱御前山から出た大雪崩れは、剱沢小屋を直撃し、そこに泊まり合わせていた六名の人々をも呑み込んだ。その六名の人々とこの大惨事については、「剱沢に逝ける人々」と言う本に詳しい。
 そしてその六人の中には芦峅寺のガイド二名も含まれ、その中の一人佐伯兵治は私の祖父佐伯宗作の実弟である。つまり私には大叔父にあたるのだ。
 そしてその兵治はやはり、現剱沢小屋主人である私の又従兄弟、友邦兄にとっても大叔父と当たる人であったのだ・・・剱沢小屋は再建され、戦後「剱の大将」と歌われた名ガイド佐伯文蔵によって経営され、現在の友邦兄にと引き継がれているが、文蔵の妻タカノこそ、宗作の兄栄作の娘であるのだから。
 そのような肉親の縁はもとより、剱沢小屋では、剱沢小屋を守り受け継ぐ者としてこの六里塚も又受け継いできているに違いない。
 里子姉のお盆のおはぎには、そんな深遠な由来があったことを、このぼんくら親爺は恥ずかしいかな、今日まで知らずに来たのだ。
 薄くなってきた後頭部を、がつんと一発強烈にではあるが、実に爽やかに殴られたような気がした。

 友邦兄も最近は往年のスーパーマンとはいかなくなってきた。当たり前である。もう七十路を過ぎたのだ。しかし、最近は三代目の新平が年々頭角を現し、実にしっかりと剱沢小屋の伝統を受け継いでいるようだし、恐らく里子姉のこの六里塚へのお盆のおはぎ作りもまた新平の奥さんである早苗ちゃんに受け継がれて行くのだろう。

 お盆の「剱沢からのおはぎ」は、剱沢小屋の歴史を秘め、恥ずかしながらその一族の末端に繋がるずぼら親爺にまで、暖かい真心と厳しい戒めも込め、届けられたような気がする。
 胸焼けしても良い。心して有難く頂こう。

 二十、 立山中学校
 
 つい最近の話だが、フェースブックと云う情報交換交流サイト?で、古い芳見橋の写真を見つけた。
 芳見橋と云うのは、常願寺川に架かる橋で、立山町芦峅寺と旧大山町小見を結ぶ。
 現在はアーチ型のコンクリート製の立派な橋で、川底までは4〜50mは有ると思うのだが定かではない。
 さて現在はともかく今をさかのぼること約半世紀、昭和四十年頃の芳見橋は吊り橋だった。
 太いワイヤーで架けられた木製橋だったが、大型のトラックなども通行し、そんな時に出くわせば橋が揺れた。

 当時、我が山里芦峅寺には小学校はあったが中学校は無く、私たちは旧大山町小見にあった立山中学校に通ったものだ。
 立山中学校の正式な名称は「大山町ほか一町組合立立山中学校」で、立山町側からは我が芦峅寺と隣の千垣地区から、又川向こうの旧大山町側からは粟巣野、原、小見、和田、牧、中地山地区などから生徒が集まっていた。
 因みに親爺が入学した昭和四十年では、生徒数は全三学年で200人を超えていたはずだ。
 もちろんスクールバスなど有るはずもなく、雪で閉ざされる真冬も片道2km余の道を歩きこの中学校に通ったのだが、その通学路にあったのがこの芳見橋で、中学生時代の三年間、立山町側の芦峅寺、千垣地区からの生徒は、この吊り橋を毎日のように行き来したのだ。
 フェースブックで見つけた、その古い芳見橋の写真からの連想で、様々なことを思い出した。

 『あますなく小草は枯れて風に鳴るかなたに小さき山の中学』... 木俣修        
 1953年頃、富山高校に奉職しておられた、歌人木俣修氏の歌だが、「立山山麓を旅したとき詠んだ歌」とのこと。
 この歌は中学校の教科書に載っており、半世紀も前にそれを教材として学んだことが記憶にあり、その折りに「この歌は立山中学校を見て詠まれた歌であろう。」との当時の先生の注釈があった。
 その先生がどなただったか殆ど記憶にないし、この歌の下半句、「彼方に小さき山の中学」の14文字しか覚えていなかったのだが、妙に中途半端な記憶の儘、還暦を過ぎた今までも心の片隅に引っかかっていた14文字であった。 
 昨今のインターネットという文明の利器により、旧芳見橋の写真をネット上で見つけ、その写真から今は廃校になってしまった、わが母校立山中学校を思い出し、その連想の中で上記の14文字を思い出したのだ。
 ものはついで、早速その流れで記憶の中の14文字を頼りにネット検索を続けた。
 そして、意外に簡単にこれが木俣修氏の作であることが解り、その歌の上の句、「あますなく小草は枯れて風に鳴る」も解った。
 その上、この歌の解説まで色々読ませて頂き、これが旧立山中学校を詠んだ歌に違いないと親爺は確信した・・・とも言えぬが、まずはそうであろうと思い込むことにした。
 富山地方鉄道の電車が、千垣鉄橋上を通過するころ、車窓から晩秋の景色を眺めやれば、川の向こうの枯れ草の中に寂しげに佇む木造校舎が見えた。
 その、寒々とした秋景色の中にも、いざ巣立たんとする若人のエネルギーが内包されている事を、歌人は意図しては居なかったかも知れないが、この歌が詠まれた十年後くらいに、この学舎で中学生の三年を過ごした親爺には、そんなエネルギーも見えてくる「彼方の小さな山の中学」である。
 『あますなく小草は枯れて風に鳴る彼方に小さき山の中学』 この歌が、我が立山中学校を歌った歌に間違いないとの思い込みは、今はもう殆ど跡形もないかつてのわが母校、立山中学校に捧げるせめてもの我が想いなのだ・・・。

 二十一、 割子そば

 昭和40年代の終わり頃、信越線か上越線の特急車内で、割子そばの駅弁が売られていた。
 そばの駅弁などと云うと、良く分からぬかも知れないが、やや細長い方形の折に、ゆでそばと、薬味と、大きめの醤油パックの様なものに入った汁が入っていた。
 その折は恐らく防水加工されており、固まった様なそばにパックのつゆをかけほぐし、薬味を載せ食べた。
 当時はまだ学生で、その弁当も、割子そばと云う長野辺りの蕎麦の一種の弁当版位な認識しかなかった。
 本来なら、そば等好む年ごろではなく、他の駅弁、例えば高崎の鶏飯弁当や、横川の峠の釜めしなどの方が遥かに好みに合ったのだが、いくらだったかは記憶にないものの、圧倒的に安価だったから、懐の寂しい帰郷時などによく食べた。
 故郷からの上京の時には、これを買って食べる事は無かった。祖母や叔父たちからもらう小遣いで大概、懐が温かかったし、夏休み明けの上京時は事に、山小屋アルバイトで普段持ったことのない金額を懐にしていたから、横川の釜めしを二個買い込んで、一時にそれを腹に収めたり出来たのだ。
 だから割子そばの駅弁は、懐具合の寂しい時に食べた駅弁として、記憶の片隅に残った。

 月日は巡り、親爺も五十路半ばの本物の親爺になった頃、オカカと二人で山小屋のオフシーズンに、山陰地方のドライブ旅行で足立博物館を訪れた。そして美術館の展示には圧倒されつつも、さほど審美眼など無い親爺の事、足早に一巡し、駐車場わきのそば屋を目ざとく見つけ飛び込んだ。
 その頃の親爺はすでに、割子そばが別名出雲そばとも呼ばれる、島根県の名物そばであることは知っていた。そして足立博物館は島根県安来市にあり、出雲市とはやや離れるが同じ島根県内だから、本場の割子そばが食べられると思ったのだ。
 割子そばには、前述のイメージしかない親爺だ。まあ本場で食べてみたいと思っただけで、さほど期待も無かった。
 が、その時いただいた割子そばに親爺は瞠目した。朱塗りの割子と呼ばれる円形の三段重ねの重箱に、程よい量盛られたそばは、決して固まっておらず黒く薫り高い。それに紅葉おろしや小葱、海苔などの薬味を載せ、かなり濃く甘みの強い汁を掛けまわし、混ぜて食べる。汁が濃いから、じゃぶじゃぶかけてすすり込むことは難しいが、蕎麦にまとわせるようにして食べるのだ。
 蕎麦の皮も一緒に挽いた、総ぐるみと呼ばれる粉で打つ黒いそばには、この濃い味の汁が実によく合う。
 三段を、あっという間に平らげた。

 割子そばとは、こんなにも美味い蕎麦だったのかとしみじみ思った親爺である。と、嘗て特急列車の中で食べた割子そば弁当が脳裏をよぎった。
 なるほど、あの頃は決して好んで食べたわけではない割子そば弁当だったが、割子そばの勘所は押さえていたのではなかろうか。
 割子そばを、長野辺りの蕎麦の一種だろうとしか思っていなかった様な学生時代の事だ。割子そばの鄙びた味わいが分かる訳がない。年を取らぬと判らぬ味と云うのは確かにあるのだろう。

 それにしてもあの頃何故、そばの名所長野を通る路線の車内販売で、割子そば弁当が販売されていたのだろうか?
 今は東京と富山も新幹線で、二時間半で結ばれている。
 特急はくたか或いは特急白山で、六時間余りかかっていた頃の車内販売の話など、もう誰も記憶してはいないだろう。
 それでも今や、六十路半ばを過ぎた親爺の好物の一つに割子そばが入っているのは、あの割子そば弁当のお陰かも知れない。
 今やインターネット上には割子そばのレシピが溢れている。
 親爺がそれを見過ごせるわけがない。昨日の夜と今日の昼は自家製割子そばを頂いた。
 実に美味かった。

 二十二、 月刊誌の組立付録

 昭和三十年代半ばの、親爺が小学生だった頃、少年月刊誌について来る組み立て付録が全盛だった。
 少年クラブ、少年ブック、冒険王、少年、ぼくら、少年画報等々多くの月刊誌があってそれぞれに特色ある漫画や、絵物語を掲載していたが、まだ小学校の二,三年生の親爺にはその漫画や読み物よりも、組立付録が重要だった。
 しかし、我が山里には本屋など無く雑貨屋が数件あるばかりだったから、自分で小遣いを握って本屋に行くなどと云う事は出来なかった。
 年に数回、富山市内に買い物に出かける母や祖母に連れられて、町場の本屋に立ち寄る時だけが、自ら付録のついた月刊誌を選べるチャンスだったのだ。
 漫画よりも付録で選ぶのだから大変である。たまたま前月号の次号付録の予告ページなどを見ていた時には、それにひかれ直ぐに決まるのだが(その予告ページは実に子供だましの見本のような代物だったから、何度騙された事だろう)、十大付録とやらを腹に抱え十文字に紐でくくられた月刊紙の、その中身はうかがい知れぬ。おもて表紙の”組立付録:Uコン式ゼロ戦”等と書かれた広告文字を頼りに、妄想に近い想像力を働かせそれを買うと決心するのだ。だが隣に積まれた別の月刊誌には、十二大付録がついていて組立付録は”新案レンズ付き幻灯機”等と云うのが目に入ると、決心はすぐに揺らいでしまう。楽しいどうどう巡りの迷路に迷い込む。
 しかしそんな楽しい迷路巡り、長くは許されず、「早く決めんと電車が来るぞ。」と促され、最後に目についた”組立付録:50cmウインチェスター銃”付き月刊誌を買って帰る事になったりするのだった。
 とここまで記憶の糸を手繰って来たが、全て半世紀以上前の記憶であるにもかかわらず
色々と期待を膨らませ、ガッカリ裏切られた事が大半だった組立付録の数々、結構鮮明に覚えている。
 前述のウインチェスター銃もその一つだった。小学校の二年か三年生の頃で、当時の親爺の背丈は、平均よりやや小さめな当時の小学生だったので、120cm足らずだったと思うが、それ故50cmの銃の長さは思ったより大きく、結構満足した記憶があるのだ。
 もちろん銃とは言え紙製だ。ごつい厚紙を何層かに重ね張り合わせ、表面にはきれいな印刷でウインチェスター銃(もちろんおもちゃオモチャした印刷)である。弾丸もその厚紙でまるで大砲の弾丸の様な印刷だったし、発射はもちろんゴムである。精々3~5m位弾が飛ぶばかりだ。複雑な工作は余りなく、不器用な子供でも作れたからか、その付録で遊んだ記憶があるのだ。マッチ箱を的に撃ったり、弾丸がどこまで飛ぶか計ったり・・・と、まあ実にたわいない遊びではあったが。このウインチェスター銃のごときはそれで楽しく遊んだ記憶がある分、良心的なものだったのかもしれぬし、親爺の銃砲好きも意外とこんなもので芽生えたのかも知れない。

 台風が接近したのだったろうか、風の強い晩のことだ。父は山小屋暮らしで居ないのが常だったが、母も何か用事で妹を連れて外泊しており、家には祖母と小学生の親爺二人だった。そこへ大風である。隣の大婆ちゃんは一人暮らしで我が家とは親戚付き合いの家だったが、その大婆ちゃんが我が家へきて祖母に「こんにゃはこすごうてねられんけに、隣のオッカや、ひとよさとめてくれよ(今夜は風が酷くて、心細くて一人じゃ眠れぬから、隣のオッカさんや一晩私を泊めておくれ)。」とやって来たことがあった。
 祖母も孫と二人だけだし、幾分心細かったのだろう、「おう、おう、泊まって行けよ。おるもその方が心強いちゃ(はいはい、泊まっておくれ。私もその方が心強いよ)。」と、三人で布団を並べ寝たことがあった。
 その時、親爺の手元に在ったのがこの厚紙制ウインチェスター銃で、「バアバ達、オリャー鉄砲持っとるけに、ドロボー来たら撃ってやるぞ。」と言ったら、二人の婆ちゃんたちは大喜びで「こりゃーどうだい。あんま、テッポー持っとりゃ、ばぁばたちゃ楽に寝れるわい。(これは嬉しいことだ。坊が鉄砲持ってるなら婆ちゃんたちは怖いものなしで安心して寝られるよ。)」と大笑いになり、親爺もつられて大笑いしながら、あっという間に寝てしまった覚えがある。
 (この隣の老婆は、黒部の弥三太郎と云われた立山を代表する名物男、志鷹弥三太郎の妻、ミヨ婆さんである。「黒部の弥三太郎」は甲山吾一氏によるフィクションで、決してノンフィクションでは無いが、面白おかしく書かれたこの作品には一部事実もあるので、親爺も一冊買いこんで愛蔵している。)
 もちろんその嵐の夜、小学生の親爺は厚紙製のウインチェスター銃をしかり抱いて寝たのである。

 子供だましと呼ばれ(事実そう云う側面もあった)ながらも、子供の想像力や夢を無限に育んでくれた組立付録の数々。それは決して単なる子供だましではなく、限られた素材と、予算の中でこの組立付録を企画作成した、大人達の苦労の結晶と云い得る、あの時代の子供文化のモニュメントでもあろう。

 懐かしさから、組立付録の傑作と呼ばれたいくつかが復刻され、販売された。
 戦前の、少年倶楽部の組立付録、戦艦三笠がそれで、全く馴染はない時代のモノなのだが、紙製組立付録の最高傑作と呼ばれるものであり、親爺はそれを二組買い込んだ。



 二十三、 山中食

 山中食とは今親爺が思いついいたばかりの表現だが、家を離れ山で食べる様々な食と云うほどの意味だ。
 日帰りの山なら弁当だし、野営を含むような山登り中なら行動食とも云うだろうし露営地で作り食べる食事もそれだろう。とにかく、家を離れた山中での食べものである。
 ただ、その山中は登山のための山中と云うより、むしろそれ以外の杣仕事だったり、狩猟のため山中だったりする事の方が多いのは、親爺の生まれ育った芦峅寺が、山を生業とする山人の村だからであろう。
 芦峅寺は立山ガイドの村で、立山と云う山岳をベースに登山のガイドを生業とする人々が多かった。それ故、日本のシェルパ村等とも呼ばれることもあったわけだが、そのガイドの多くは登山としての山歩きはもちろん、狩猟や杣仕事、イワナ釣り等にも長けていた。 いやむしろそんな山仕事があって、それ故山に長けて行ったとも言えるだろう。
 
 さて、その山の中での食べ物の話である。と云ってもとても美食談義とは行かない。
 弁当程度の軽い山であれば、握飯が多いのはつい最近の話で、嘗て米が貴重品であった時代などは「おりゃあ、える粉(炒り粉=麦こがし)にシナガキ(信濃柿)混ぜてヘル(昼飯)にする。今の若い衆はこんなもんちゃ食えんかろう。」と、終戦直後の頃、復員して、山仕事をしていた父(宗弘)に、さる高名な老山岳ガイドが自分の弁当を見せてくれた。
 食糧難で、大変な時期ではあったが、父もその弁当には驚き、恐れ入ったと云う。
 麦こがしにシナガキと呼ばれた、大粒の葡萄大の黒い果実をかき混ぜ団子状にして食べていたのだそうだ。「おりゃ、ヘル(昼飯)はこるばっかじゃ。(こればかりだ。)」と笑いながら件のヘルを食べる顔は、年季の入った山人の顔だったそうだ。シナガキなど一寸歩けばどこででも採取できるし、麦こがしは間食として、昔から身近なものだったのだ。
 又、頗る食べ物に対する偏見のない(悪食な)先輩ガイドが居て、やはり戦後の立山でのことだが、弘法平辺りに生息する大きなカエルを何匹か捕まえて、「えめし(夕食)の菜なできたちゃ。」とこれの頭を次々に鉈で落とし、逆さまにして内臓を抜き、飯盒に詰めて小屋へ持ち帰り、醤油か何かで味付けし煮て食べてしまったそうだ。更にその煮汁に飯を詰め、「こるで、明日のヘルも出来た。」と澄まし顔だったそうで、流石の父もこれには参ったそうだ。
 とそんな話を良く聞かせてくれた父自信も、狩山と呼ばれた山中泊まり込みの熊猟では、獲物の肉を味噌で煮込み、飯盒に詰めて持ち歩き、そればかりで二日や三日は過ごして猟に励んだものだというから、昭和30年代以降の山しか知らぬ身としては、驚きである。
 
 流石に親爺たちの代は、山行時の弁当と云えば握飯やパンと言ったノーマルなものだし、露営覚悟の狩猟などはしたことも無いが、叔父によく連れられて行った岩魚釣りやキノコ狩りは一夜の露営をする事も多く、登山での野営、幕営などは数限りない。
 登山での野営や幕営で食べたものに関しては、余りにもオーソドックスすぎて、市販のインスタント食品を多用したし、精々ぺミカンを手製して持ち歩いたりという程度だが、叔父に連れて行ってもらった、釣行では釣果を大名食いしたり、イワナの燻製(焼き干し)造りを教えてもらったりと、面白いことも多々あった。叔父の年代以上の山人たちは、食料の現地調達を当たり前のように考えていたのだ。
 その中でも忘れられないのは、ツキヨタケ事件である。
 山の大ベテランである叔父をリーダーに、親爺と従兄弟達、そして山岳雑誌のフリーライターまで加わったメンバーで奥山の釣り場を目指した時のことだ。出発が遅れ、夕刻の出発となったが、目的地までの道半ばで真っ暗になり、比較的平坦な道の真ん中で幕営する事となった。で、そこで各々持参の鯖寿司やら、おにぎりやらを食べ、すぐそばの倒木にびっしりと生えていたキノコをモタセ(ナラタケ)だと判断し、採って、それでみそ汁を作り食べたのだ。
 が、そのモタセにツキヨタケが混ざっていたらしい。
 先ずは吐き気、だんだん強くなり、終いには胃液まで吐いて、アワしか出なくなる頃に吐き気は収まった。が、すかさず強烈な下痢に襲われる。それこそ待ったなしで、腹が下り続け、尾籠な話だがテントの周りは目も当てられぬ状態だった。でも、そんなことかまってはおれない。ズ~ッと遅くまでテントを出入りする音が絶えなかった。そして、吐き下しの凄まじい一夜は、深夜零時を過ぎた頃に漸く収まった。
 で、翌朝、この懲りない面々は下山せず、それから3時間余りをかけて目的の谷に至り、かなりの釣果をものにして夕刻には無事、少しよろめきながらも帰宅したのだ。
 件のフリーライター氏、これを面白おかしい記事にして発表。「お陰で儲けさせて貰ったよ。」とは恐れ入った。
 
 山中食の話はまだまだ有りそうだが、思い出し纏めるのに時間がかかる。これ以上は次回にでも譲ろう。まあそのうちに・・・。


 

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